PROFILE

木下 進 Kinoshita Susumu

詳細プロフィールは下欄に記載。


ジャズピアノを稲森康利氏に師事。(イナモリ・メソッド研究会)


2003年4月から2008年12月まで新宿ケントスで、専属バンドのキーボード奏者を務める。70年代のDISCO・BLACK・SOUL・R&B・ROCKを中心に演奏。


2ヶ月に1度、海外アーティストを迎え、バックバンドとしてツアーに参加。

スリーディグリーズThe Three Degrees (動画1) (動画2)

ベンEキングBen E. King

テンプテーションズThe Temptations(Ali-Ollie Woodson) (動画)

スプリームスThe Supremes(The Former Ladies of the Supremes)

スタイリスティックスThe Stylistics 


スタイリスティックスがTV番組『SMAPxSMAP』に出演した際、キーボードを担当。 (動画)


2009年 木下ピアノ教室を始める(東京都板橋区、北区)

2014年 福岡県北九州市若松区に移転。

2014年4月 木下音楽教室として再開。

2014年4月より JazzCafe ElleEvansにて、毎月第2、第3土曜日にジャズライブを行っている。

2020年7月1日より、通常レッスン・リアルレッスン再開。

2020年4月よりオンラインレッスンに対応。(ZOOMを使用)



詳細プロフィール

 

三重県津市出身


【父の影響で将棋道場へ。習い事はそろばん】

 特に音楽的な習い事はしていなかった。記憶に残っているのは、保育園の運動会で大太鼓を一人先頭でたたいたことぐらい。内気でマンガやゲームが好きなインドア少年だった。

 父や兄に似ず、運動音痴だった。保育園時代は足が速い方で、運動会ではアンカー。1位になれず、悔しくて泣いたのを覚えている。負けず嫌いだった。

 小学生時代の習い事はそろばん。3級に合格したら辞めていく人が多いなか、準1級を取得し、中学入学と同時に辞めた。

 父の影響で将棋道場に通った。父に2枚落ち(飛車角抜き)で勝てばラジコンを買ってやると言われ、必死に勉強し夢中になった。


【体を鍛えたいという思いで陸上部へ。バンドブーム到来】

 中学生になり陸上部へ。人と違うことをやりたくて、2年目から棒高跳びを始めた。

 中学3年生の頃、バンドブーム到来。友達と一緒の高校に入り、バンドを組もうと約束する。当時からアニメやゲーム、中でもゲームミュージックが好きだった。シンセサイザーに 興味を持ち、キーボードをやると決めた。

 このころ、カリスマ的なキーボード奏者がたくさんいた。(TMネットワークの小室哲哉さん、筋肉少女帯の三柴江戸蔵(理)さん、ボ・ガンボスのKYONさん)


【高校1年の夏にキーボードを習い始める】

 高校に合格し、キーボードを買ってもらった。最初のキーボードはヤマハEOS B200。高1の夏休み、地元の楽器店にキーボードを習いに行く。ヤマハのポピュラーミュージックスクールがあり、キーボード奏者用に独自のテキストがあった。譜面も読めず、指も動かない、音感もない。ゼロからのスタート。やる気だけはあり、クラシックピアノも教えてほしいとか、即興演奏課題はどんな教材から始めればいいの?とか、先生にわがままばかり言っていた。

 部活(高校でも陸上部)とバンド活動、アルバイト(禁止されていたけど)と忙しかった。アルバイト代は、楽器代、CDレンタルやウォークマン、CDプレイヤー、カセットデッキに消えていった。 高2の頃、コルグのデジタルピアノを手に入れた。

 学校では音楽の先生に頼んで、防音室にあるアップライトピアノを時々使わせてもらった。ひたすらブルグミュラーを弾いていた。「スティリアの女」が好きで、よく弾いていた。


【高校3年になる数か月前】

 バンドブームで、特にBOOWY,ZIGGY,エックス等が人気だった。バンドでベースを弾いたりドラムを叩いたりした。学校で一番上手なドラムの子が 基本から教えてくれた。バンドデビューはベース。音が鳴れば、どんな楽器でも楽しかった。卒業ライブではキーボードとドラムを掛け持ち。(当時はバンドの掛け持ちは当たり前だった) 

 進路を決めるとき「大学に行ってサークルでやるのではなく、プロを目指したい」と、親に打ち明ける。三者面談で「この子に音楽的才能なんてないと思うんですけど」と 言いながらも、やりたいことをやらせてくれた。今でも本当に感謝している。

 音楽の道に進むため、子供の頃から聞こえにくかった左耳の手術を受ける。真珠種性中耳炎と判明。大きな病院での再手術を勧められた。


【上京し専門学校に入学。アドリブやコードで苦労。】

 音大を受験するような訓練は受けてなかったので、筆記試験だけの専門学校「ミュージック・カレッジ・メーザーハウス キーボード科」に入学。レベル分けされておらず、プロ並みの人から初級者まで一緒のクラス。ついて行けなくて、やめていく同期の人も多かった。アドリブやコードでも、自分が全く無知で何も弾けないと思い知らされた。

 3ヶ月に1度、ジャズ理論のテストに合格しなければ留年決定だった。死に物狂いで授業について行った。アンサンブルクラスのレベル分けテストでは、アドリブを弾くことが出来ず、一番下のレベルからスタートだった。 2年制の授業はあっという間におわり、卒業証書だけが与えられた。自分で上達した感覚がなかったので、さらに2年別の学科で勉強することにした。


【ジャズとの出会い。刺激的だったレッスン】

 入学して3年目、板橋文夫先生のジャズピアノクラスへ。さらに生徒のレベル差が激しく、複雑な曲でも、アドリブ、移調、何でもできる人がたくさんいた。基礎的なコードから実践的なコードまで 一気に教わった。 グループレッスンでは、キーボード、シンセ、ピアノ、ドラム、パーカッションを使い、交代で次々にバンド演奏した。曲の構成、ソロ回し、コール&レスポンス、イントロ、エンディング等を演奏しながら体で覚えた。この授業がなければ、今ジャズを弾いていないと思うぐらい。

 授業で、生徒が先生役をすることがあり、 板橋先生から「教え方がうまいよ」と笑いながら言ってもらえた。これが今、ピアノ教室をしているきっかけになった。


【卒業後、バンド活動をしながらフリーター。就職】

 2年間、ジャズピアノを学びながらバンド活動をしたが、その後はフリーター生活。 

 DTM(デスクトップミュージック)の世界に入っていく。音声データ加工や、作曲の仕事もした。デモテープも製作したが結果が出ず、バンド活動も下火に。

 派遣社員として働き、そのまま一般企業に就職。設備会社のネットワーク部門での仕事で 結構楽しく、3年近く勤めた。この仕事でPC漬けになったのが、今のパソコン好きにつながっている。

 このころ、持病(真珠種性中耳炎)の再手術を受ける。手術は成功したが、聴力は回復しなかった。(詳しくはブログに裏プロフィール的に記載)


【やはり音楽がやりたい。脱サラし新宿のライブハウスへ】

 会社に勤めながら、音楽の勉強を続けた。 やはり音楽がやりたくなり会社を辞める。(もちろんしっかり引継ぎをして) 

 ライブハウス専属バンド「Hi-Jack」のキーボード募集記事をネットでみつけ、即応募。オーディションへ。1度目のオーディションは不合格。やる気があるなら、1週間後にもう1度と言われ 2度目を受ける。合格ではなかったが、「やる気があるなら毎日でも見に来い」というバンマス野村修一氏の言葉に、ほぼ毎日見に行く。次第に音源や譜面を渡され、 怒涛の半年間に及ぶリハーサル後、ステージデビューした。


【ステージデビュー。最初の一年間は無我夢中でステージに立つ】

 1日6ステージ、演奏中に次々とサインで次の曲を伝えられ、曲間もなくノンストップで演奏。アマチュア時代とは違い、演奏技術はもちろん、ステージ構成等にも厳しかった。1年目は全く余裕なし。無我夢中でついて行った。音色や、自分が演奏するパートの選択等、センスをものすごく求められた。


【一番多くを学んだ演奏現場「Hi-Jack(バンド名)学校」と呼んでいた。】

 2年目以降も、年間約1300ステージをこなし、曲数は70年代の洋楽ヒット曲を中心に600曲近く演奏した。バンド在籍中に、多くの海外アーティストのバックバンドとしてツアーを行った。SMAP×SMAPに出演できたのも、海外アーティストのバックバンドをしていたから。バンド以外ではショートムービーの音楽を依頼されたり、多忙だったが充実していた。

 4年目からは、結婚・引っ越しを機に アップライトピアノを購入。サラリーマン時代に購入した防音室に設置。稲森康利氏にジャズピアノを教わりに行く。


【耳を傷め、バンドを脱退。】

 ライブハウスでの爆音により、問題を抱えていた耳をさらに傷め、体調を崩していく。ついにステージで演奏できなくなり、約1年間の引継ぎを経て、演奏現場から離れることになった。約6年間演奏したバンドには感謝しかない。

 耳の負担になる演奏の仕事は出来ない。 自分の実力のなさも思い知った。周りのメンバーに助けられていたことを痛感。 妻との二人三脚の生活が始まる。


【昼間はパート。午後からはピアノ教室開業の準備】】

 耳に負担のない、音楽以外の仕事を午前中に行い、午後はピアノ教室開業の準備。やはり教えたいという気持ちが強かった。

 きっかけの1つは、板橋先生の授業で「教え方がうまいよ」と褒められたこと。

 2つ目は、演奏の現場で徹底的に鍛えられた経験があったから。

 3つ目は、20代の頃に読んだ業種診断の本に、教育者が合っていると書いてあったこと。

 4つ目は、引継ぎをしたバンドの後継奏者が、立派に成長してステージ演奏出来るようになった喜び。

 5つ目は、小さい頃から楽器を習っていない僕には、大人になって始めた人たちの苦労がわかること。

 6つ目は、習い始めた頃に教わっていればこんなに苦労しなかったのに…、という事がたくさんあり、それをレッスンで伝えていきたかったから。


【ピアノ教室開業。教室に来る方の共通点】

 即席でホームページを作り、問い合わせもあり、生徒も体験レッスンも増えてきた。僕の教室にやってくる全ての生徒さんには共通点があった。コードの知識が、ほぼないということ! イナモリ・メソッドは全くの初心者から始められる教材ではなく、コードの演奏技術もある程度必要、チェルニー30番程度のテクニックも必要。多くの生徒さんがコードを知らないところからスタート。 中には、テクニックもコードも知らない、完全にゼロからスタートの人も。自分自身コードで苦労した経験があるので、コードを習得するための満足いく教材がないことに気づく。 「コードが苦手な生徒さん、コード難民を絶対に救う!」という思いから、教材を自分で少しずつ作り始める。


【教会で奏楽を経験】

 オリジナルのコード教材が出来てから、 レッスンがスムーズに運ぶようになり、 熱心な生徒さんも増えた。 

 妻の影響で教会に通うようになり、礼拝でリードオルガンを弾くようになった。難しさ、奥深さに苦労する。リコーダーアンサンブルでは、テナーリコーダーを担当。教会のコーラスグループの伴奏も経験。スピーカーを通さない楽器ばかりで、耳に大きな負担がなく、耳を休めるのに恵まれた数年間だった。


【体調を崩しパートを辞めた。妻の父の介護のために北九州へ】

 パートの仕事中に、急に体調に異変を感じるも、原因不明のまま生活していたが、突然朝、めまいと吐き気に襲われ立てなくなり、 救急車で運ばれる。その後の検査で、 良性発作性頭位めまい症(右耳)と診断された。 持病は左耳だったが、ライブハウスで耳を酷使し右耳も傷めていたことを知る。

 その後パートを辞め、妻の父の介護の為、実家の近くへ引っ越すことになった。ピアノ教室も 生徒の皆さんに辞めることを説明し、20年以上いた東京を後にした。夫婦そろって福岡県北九州市へ。現在に至る。